豊郷小学校旧校舎群にゾンビが溢れかえるのを見てみたい

はじめに

岡本健『アニメ聖地巡礼の観光社会学』(法律文化社)は、アニメやゲーム、漫画の舞台になった土地を作品のファンが訊ねるという2000年代中頃から一般社会にまで注目を浴びるようになった現象についてのフィールドワークに基づく実証研究の報告である。

2018年の出版だが、当書の元となるのは著者が2012年に提出した博士論文であり、主な調査時期は2008~2010年頃である。
『らき☆すた』や『けいおん!』が主な調査対象となっていることからも解る通り2019年現在からすれば「一昔前」の研究ということになるが、当書のテーマである「オタクの聖地巡礼」については未だ研究対象として取り上げられることが少なく、商業出版された文献としては当書をもって同分野での基礎文献とみなして良いだろう。
元が博士論文であるため、ひたらすら地味な記述が続くが、(これまた博士論文であるため)個々の章は文量が少ない上に必ず概要とまとめが記されているので、第一印象よりもずっと読みやすい。

以下、本稿では『アニメ聖地巡礼の観光社会学』の読後感想、およびそれを個人的に補完する所見を記す。


当書における岡本の主張は「アニメ聖地巡礼」が「他者性を持った他者」と出会う回路になるということである。

岡本は戦後日本の観光産業の移り変わりを辿った後、東浩紀や大澤真幸の著作を参照し、90年中頃以降の日本の社会状況について、成員が自らの興味の範囲内だけで充足する互いに没交渉な島宇宙が並立した状況だという見解に大筋での同意を示す。趣味を同じくするコミュニティのなかだけで閉じ、異質な他者との交流を不要とするような消費形態だ。
そして、オタクと呼ばれる集団こそ、そのようなコミュニケーション様式が顕著に表れているとされる。
ところが当書の報告が明らかにするのは、アニメ聖地巡礼をするオタクが、訪れた先の街で、美少女アニメなど興味のない見ず知らずの地域住民と友好関係を築いている例が少なくないという事実だ。

そこから岡本は、アニメ聖地巡礼という観光形態が、同質的な仲間内に閉じこもっている最たる例とされるオタクをもってして、異質で不確定性に満ちた「他者性を持った他者」への回路を開く何かがあるということを当書の主題に据えている。

以上のような方向性と結論に対して、細部に不満を覚えながらも私は大部分に首肯する。
私の肯定と細部への不満。本稿ではそれを述べてみたい。

金町はいつも彼方の町である

私は、とてもではないがアカデミックな世界とは無縁ながら、文化人類学や社会学に継続して興味を持ち、たまにその分野の読書を嗜んできた。しかし、どのような経緯でこの『アニメ聖地巡礼の観光社会学』を手に取ったのか。少しだけ自分語りに付き合ってもらいたい。

私が生まれ育ったのは千葉県松戸市。西に流れる江戸川で県境を成し東京都の東側に接する。江戸川の対岸からは葛飾区と江戸川区を望む。幼少の頃、河川敷をたまに通ると、私は向こう岸の街並みを眺めていた。
川の向こうのその一帯が下町と呼ばれ、昔ながらの町並みと風情を残していることは、どこで知識を得たものか子供ながらに知っていた。西には過去と繋がっている。そのことは、松戸駅から西の江戸川方面へ進めば旧水戸街道という古めかしい名前の道路が走り、道沿いに古い家々が並んでいることもあり、さらに西へ向かえばより一層の懐かしさ(?)が増すだろうという当たっているのか良く分からない予想からも類推していた。

常磐線が上野まで通り、地下鉄千代田線で都心の中枢へと直通する松戸駅を中心にして、松戸市は典型的な東京のベットタウンである。その恵まれた立地にして人口50万を誇る都市であるから、私が物心ついた平成初期、松戸市街はすでに近代以前の面影を失っていた。

そんな、ありふれた郊外で日々を過ごしていた私は、自らを育む地域に対して、特筆すべきアイデンティファイを認められないことに不満を抱いていたのだ。自分が帰属するコミュニティ、その自我を確立できないことに対する不安。
転じて私は、江戸川の対岸に望む下町に憧れにも似た望郷の念を抱いていた(私には田舎がなかったのだ)。

なぜ、たった一本の川を隔て、彼方は歴史を脈々と受継ぎ、此方は過去と断絶しているのだろうか?なぜ、向こうにはルーツがあるのに、こっちには見当たらないのだろう?

いつ頃からだろうか、私の内にそのような疑問が心に宿り、ついには一生を掛けて取り組むに足る命題にまで大きなものになっていた。
私を文化人類学や社会学に向かわせたのは以上のような理由からだ。

時は過ぎ二十歳を過ぎた頃、ゼロ年代のスノッブなオタクのご多分に漏れず、私は、東浩紀を入り口にしてフランス現代思想にかぶれていた。
それは2012年頃のことだと記憶している。私は文化人類学と現代思想が交錯する一冊の本に出合った。ジェイムズ・クリフォード/ジョージ・マーカス『文化を書く』。
この本は、1980年前後、当時アカデミックな世界で自明なものと考えられていたエスノグラフィーの手法について根幹を揺るがす批判を発した著作だ。
文化人類学は、西洋社会とは異なる未開地域の風俗を主な研究対象としている。彼らの文化が我々(西洋近代)の文化とは著しく異なっているとしても、それは決して発展が遅れているのでも劣っているのでもなく、むしろ別様の普遍性を備えたものだ。
特にレヴィストロース以降の文化人類学は、そのような信条を基にして、西洋近代の価値観に別の視座を用意することが目的の学問である(ゆえにポストモダンの嚆矢を成した)。
しかし『文化を書く』は、文化人類学が大きな自己欺瞞を抱えていることを暴いた。
いわく、西洋の研究者が未開地域を代弁するという行為はその未開地域の声を奪っているのではないか?西洋の研究者は自分のイメージする未開社会に合わせて浄法を取捨選択しているのではないか?それは西洋の優位と未開地域の後進性を再生産しているだけではないか?
権力論・フェミニズム・ポストコロニアル・オリエンタリズムといった広範な思想を背景にした刺激的な議論に、私は大いに感化された。

翻って、自分の国、日本について顧みる。そこで手に取ったのは観光人類学という分野の本。当時、政府官僚の観光立国を目指すという喧伝が報道を介して私の耳にも届いていたからだ。インバウンド誘致の戦略として飛び交う言葉は、京都・神社仏閣・伝統・歴史・和食といった外国人がイメージする解りやすいこてこての日本である。
そういったセルフイメージの発信は、観光が日常とは異なる物・景色・文化・体験を目的に行くものであれば、日本文化は(来日する外国人の)自国とは異なるストレンジなものだと内外に向かって自分から言っているようなものだ。西洋文化こそスタンダードであるという意識の反復ではないか。
ここでの私の感情は、決してナショナリズムや西洋に対する劣等感ではない。それも全く無いとは言わないが、そういった保守的な思考を抜きにして、海外からの観光客誘致を語る行政の言葉に違和感を覚えたのだ。
たとえば経済の話。キモノの国が作ったスーツが売れるか?盆踊りの国のダンスミュージックを聴くか?異質さのアピールではニッチな市場は寡占できるが、その100倍、1000倍の規模を誇るポピュラーな市場にどれほどのマイナスがもたらされるか。

観光客が見たいものを見せるだけでは駄目だ。それでは、観光客の想像力の内部で無批判に収まっており、その皮膜を食い破ることがない。一体何のために、見知らぬ土地に来たのか?見知らぬ土地が想像通りだったという自身の世界観の肯定のためか。そんな穏便な安堵に何のスリルがあろう。
観光客は、一方的に見ているだけでは駄目だ。現地の住民から見返されなければならない。
やや強い言葉を使えば、観光、あるいは異文化の出会いに対して、私はそのような考えを抱くようになった。その主張は、岡本が当書で言う「他者性を持った他者」とほとんど重なっていると理解している。


以上のような積年の想いから、私は『アニメ聖地巡礼の観光社会学』で展開される主張を肯定的に捉える。

しかし、当書には議論が不足していると感じるところがあった。
岡本は、島宇宙化した現在の社会状況を否定的に捉え、それは打破すべきものだということを自明のことをして議論を進めている。つまり、なぜ「他者性を持った他者」と出会う必要があるのか、あるいは出会うべきなのか、その根拠が説明されていないのだ。
以下、この点について私なりに補完してみようと思う。

「アニメ聖地巡礼」の発展

岡本は「アニメ聖地巡礼」が『セーラームーン』や『天地無用!魎皇鬼』が最初期の例であるという調査結果をもとに、1990年代初頭に開始されたことを示した上で、その行動原理がポストモダン(社会の島宇宙化)の一端であると主張する。

ここでは、1990年代前半ごろに開始されたとうことが大きな意味を持つ。これは、第4章で整理した時代区分で考えると、ちょうど「国際観光隆盛の時代」がバブル経済の崩壊とともに終焉し、観光の動物化が始まる時期と合致している。大澤による「不可能性の時代」、東による「動物の時代」の開始時期である1995年とも近い。この時期に登場し、現在まで続いている旅行行動であるアニメ聖地巡礼は、本書の分析対象としてふさわしいと言えるだろう。

だが、当書を通して読んでみても「アニメ聖地巡礼」が大澤・東のポストモダン的社会分析の直接的な事例だとする説得力のある議論は見つけられなかった。

「アニメ聖地巡礼」はクローズドな趣味性の追求であり、それを追求した結果、意外なことに「他者性を持った他者」への回路が開けている。岡本の記述には、そのような結論ありきの議論が所々に見受けられる。

「アニメ聖地巡礼」の発生・発展については、社会状況を持ち出した説明は深読みだと考える。むしろ、岡本も踏まえているように「アニメ聖地巡礼」は文学・映像等、創作物の舞台を訪ねるというオタクに限らない一般的な旅行動機であり、その対象がアニメにも広がってきたという見解の方が素直だ。もう少し、詳しく理由を考えると以下のような要因が思いつく。

  1. 70-80年代に10代だったオタク第二世代が自分で旅行先を決定できる年齢に達した
  2. アニメが実在の風景を参照した作画を行うようになった(作画技術の向上により、実際に存在する風景をトレースする/できるようになった)
  3. アニメが実在の場所や地域を舞台にするようになった

言うまでもなく2と3は関連している。
作品の表層に注目すれば2の点が浮上し、より深いところでは3となって現れる。
「アニメ聖地巡礼」はアニメの舞台・風景を現実に探し、訪れるという行動である。よって当たり前のことだが、アニメ作品に現実のそれが描かれないことには実行のしようがないのだ。だから、『鉄腕アトム』、『マジンガーZ』、『魔法使いサリー』等で育ったオタク第一世代にはそもそも訪れるべき聖地が無かった。それは彼らが成人した80年代になっても『機動戦士ガンダム』、『宇宙戦艦ヤマト』等、SFアニメブームであったため、依然として状況は変わらなかったと考えられる。実証的な統計を取ったわけではないので断言できないが、アニメに実在の場所が頻出するようになったのが90年代からではないだろうか?

「アニメ聖地巡礼」について考えるとき、私はこの点が興味深い。そこで次に、私が以前『小説家になろう』に投稿した拙論を転載する。
勢いに任せた投稿とはいえ、あまりに竜頭蛇尾が著しくて汗顔の至りではあるが、今もって私にはこの拙論をまとめる力量が不足し、かつ本稿の議論に参照するには十分な記述と判断し、加筆修正は控えた。

小論「非現実から虚構、そして異世界へ」

落ちてくるヒロイン

オタク系文化圏における男性向けコンテンツでは、ゼロ年代の中盤に「女の子が空から落ちてくる」、いわゆる「落ちもの」と総称されるボーイミーツガールの形式が流行・定着した。
それ以前、すなわち90年代以前のテンプレはというと「朝、主人公が学校に向かっていると、パンをくわえた女の子と曲がり角で衝突する。そして学校に行ってみると、ぶつかった女の子は主人公のクラスに編入してきた転校生だった」。というものであった。
では、主人公とヒロインの出会いは、どのような理由から「曲がり角での衝突」から「空からの落下」へと移行したのだろうか。

比較神話学によると、一般に体系的な神話の想像力は垂直から水平へと至るそうだ。
『古事記』『日本書紀』等に記載された本邦の日本神話も例外ではない。

たとえば冒頭、「古に天地未だ分かれず(略)天先ず成りて地後に定まる」というように天地の開闢が語られている。この「天と地」という区分が、すでに垂直的な関心を示しているのは言うまでもないだろう。
次の国生み部分でも、イザナギとイザナミの二柱が天浮橋に立ち、混沌とした海のような状態だった下界を天の沼矛で掻き混ぜて「その矛の先より滴る潮、凝まりて一つの島に成」るというように、垂直的な出来事(天浮橋―オノゴロ島)が語られる。
この後も、イザナギはイザナミを追って黄泉国へ赴くし(高天原から地下へ)、スサノオも高天原から出雲を経由し根の国へと至り(天から地上、そして地下)、続く国津神から天津神への国譲りも天界と地上との交渉である。
そして「天孫降臨」では、アマテラスの子孫であるニニギが高天原から芦原中国へと天降る。二十一世紀のライトノベルでは美少女が降ってくるが、古代の神話では神様が降ってくるのだ。

しかしこれ以降、垂直的想像力は後退して水平的思考に席を譲ることになる。人代に突入すると、人間しか登場せず、物語は地上の政治や権力争いに限られるのだ。その冒頭は「神武東征」である。「降臨」から「東征」、一目瞭然ではないだろうか。

ここで、私たちの想像力は水平面が現実、垂直軸が非現実を表していると仮定する。
その上で、改めて主人公とヒロインの出会いについて考えてみよう。

ここで注目すべきは、漫画・アニメがx―yの二次元平面を用いた表現であるという事実だ。

主人公とヒロインの出会いとは、主人公の日常的世界に、ヒロインという非日乗的な存在が闖入してくるという現象である。ではそれを二次元で表現するならどうすれば効果的だろうか。言うまでもない。二項を二次元で示すのだから、一方をx軸で、もう一方をy軸で示せばよい。また、主人公が読者の分身であるから、その世界は私たちにとっても日常的世界となり、彼は現実的世界を示す水平面に含まれるx軸に配するのが適切だろう。対するヒロインはそこに外在するy軸に配される。

こうして二次元のオタク系作品では、女の子は垂直方向に「落ちてくる」ことになったというのが私の考えだ。

これなら「転校生と曲がり角で衝突」するのが廃れた理由も説明できる。
まずひとつめ。
主人公と女の子が曲がり角で衝突するという事象は、水平面上、すなわちx―z平面で展開される。しかし、漫画・アニメは確認したようにx―yの二次元平面上で構成されているから、水平面の運動をそのままでは描写しにくいのだ。上から俯瞰的に描くという選択肢もあるが、主人公を客観的なポジションから眺めてしまっては読者の主人公への感情移入を阻害するだろう。せっかくの出会いのシーンだ、それはまずい。かといって、主人公に寄り添ったビューでこちらに迫ってくる女の子を描くなら、必然的にパースペクティブが発生する。非日常の到来を、現実感を感じさせる遠近法で描く。これは普通にやると祖語が生じてしまう。

ふたつめの理由だが、それを説明するためにもう一人、新しいタイプのヒロインに登場してもらおう。
ここまでの議論によって、ヒロインは二種類に分けることができた。y軸に沿って空から落ちてくるのと、z軸を走ってきて曲がり角で衝突する子だ。便宜的に前者を「異星人タイプ」、後者を「転校生タイプ」と呼称する。
これに加わるのが、x軸、つまり主人公の日常世界に主人公と共に属するヒロインで、ここでは「幼馴染タイプ」としよう。彼女はどのような特徴を有しているのだろうか。

このタイプは、物語開始時点ですでに主人公と仲が良いという点で他のタイプと区別される。
異星人タイプや転校生タイプも物語開始時点で主人公と知り合いの場合もあるが、まだそれほど仲が良い訳ではない。

幼馴染タイプは主人公と同じ世界に生きてきたから、主人公、ひいては主人公を感情移入の対象とする読者と社会通念や一般常識を共有している。
よって、もし中に常識から逸脱するような、非常識な出来事が発生したらそれを修正する(ツッコミを入れる)役回りを担う。おせっかいな幼馴染、しっかり者の妹といったキャラクター類型はこのような背景から生成されたと考えている。

余談だが、同じツッコミ役でも委員長キャラはこのタイプに含まれないことも多い。彼女は秩序を維持する役割こそ幼馴染タイプと共通しているが、自身の役割に固執しすぎていると一般常識(x軸)から逸脱してしまい、別のタイプに分類した方が適切となる。たとえば、極度に生真面目だったり潔癖症だったり、というキャラが当てはまる。
だいたい主人公と委員長は、たいてい最初は仲良くない。ストーリーが進むにつれて、だんだんと仲良くなっていくのだ。
そう、幼馴染タイプと他二つとでは、主人公との関係が異なる推移をみせる。主人公と幼馴染タイプは、それまで親しい関係、ことによっては過度に近すぎる関係にあるので、男女七歳にして席を同じゅうせずの如く、異なる人間として、あるいは恋愛対象たる異性として意識し始め、一体感を放棄し「離れていく」。対する転校生・異星人の両タイプは、物語開始時点で、主人公とは未知、もしく顔見知りであっても疎遠なため、相手を理解していく。つまり互いに「接近していく」ことになる。

話は戻る。
私たちは神話的想像力を援用して、物語内では、x―zの水平面を現実とし、y軸を非現実としたのだった。そしてx軸を現実世界の中でも、特に主人公の属する日常空間とした。となれば、残りのy軸とz軸は非日常とすることができるだろう。
ここから

現実(x―z)と非現実(y)

という対立軸が浮かび上がってくる。

ちなみに

日常(x)と非日常(y―z)

というのも成立している。

しかし、z軸については、まだ単独で何を表しているか決まっていない。z軸は現実世界のなかにあるが、主人公=私たちの日常の外に広がっている。
そこで本論では、セカイ系と呼ばれる(呼ばれた)物語群を意識して、z軸を「社会」と規定したい。

前島賢著『セカイ系とは何か』によると、

セカイ系は「主人公 (ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと

だという。これを本論に引き付けて解釈すれば、小さな関係性とはx軸の日常世界、省略される中間項とはz軸の社会、そして抽象的な大問題がy軸の非現実性に該当する。
このように考えたときセカイ系とは、漫画・アニメというメディアが、奥行きであるz軸を欠きx―yの二次元で構成されるという自身の特性をラジカルに突き詰めた末の、生まれるべくして生まれた物語形式だといえる。

セカイ系を語る上で欠かせないのが「終わりなき日常を生きろ」という時代精神だ。もちろんこれは宮台真司の著作のタイトルである。ちなみに、その書籍が刊行されたのは、セカイ系の嚆矢にして完成形の『新世紀エヴァンゲリオン』がテレビ放映されたのと同じ年だ。

終わりなき日常。
それは、この世界には私たちをワクワクさせてくれる未知のものなど何もない、私たちの周りの世界がどこまでも、いつまでも続いていくという感覚だ。戦後、日本の全土は急速に均一化した。どこに行っても同じチェーン店が並ぶ、代り映えのしない景色が永遠と続くだけ。国内だけではない。マクドナルドやアマゾンといった多国籍企業が世界の隅々まで根を張って、この世界は凄まじいスピードで地域間の差異を失っている。

そして、このようなこのような考えを徹底すると、終いには日常が現実世界を覆いつくし、両者はイコールで結ばれてしまうことになる。
先程示した「現実(x―z)と非現実(y)」に「現実(x―z)=日常(x)」という等式が追加され、「日常(x)と非現実(y)」という対立に変化する。
これがセカイ系の世界観だ。セカイ系の物語は歪だと言われてきたが、その歪さは「日常と非日常」でも「現実と非現実」でもない、「日常と非現実」という捻じれた二項対立をテーマに採用したことに求められる。

さて、これでようやく「転校生と曲がり角で衝突」する出会いが廃れた理由の第二について説明がついた。
現実の中で、しかし日常の外という領域、本論が言うとこのz軸的な要素が作品世界から消滅したために、それを体現していた転校生タイプもメインヒロインの座を下ろされてしまったのだ。

非現実から虚構、そして異世界へ

セカイ系は、日常(=現実)と非現実を対立軸とする物語であった。

しかしながら、「非現実」である創作物が、「非現実」というテーマを扱うことは自己言及にあたり、否応なしにメタ的な要素を孕んでいくことになる。従ってセカイ系における言説では徐々に「非現実」という語は姿を消し、代わりに創作物を意味する「虚構」という言葉に置き換わっていった。

では、「日常」と「現実」の関係はどうなったかというと「日常=現実」というセカイ系的な想像力が定着して、この二つの言葉は互いに同義語として扱われるようになってしまった。

その結果、セカイ系の後、ゼロ年代中頃には「現実と虚構」という言い方が流行ったが、これは二次元平面(x-y)のアニメ・漫画と、それに正対する私たちを繋ぐz軸のことを意味している。ここにきて、セカイ系に排除されたz軸が再浮上したのだ。

それは、私たち鑑賞者と創作物の関係性であり、つまり、鑑賞者も創作物のテーマに内含されることになった。

メインキャラクターにテンプレートなオタクキャラが登場するようになったのはこの頃であり、作中でネットスラングが話されたり、実在する街や風景がそのまま舞台/背景として採用されるケースが増えたのも無関係ではない。

セカイ系を駆動していた「非現実」という想像力は「現実ではない」という否定語である。それは「ここじゃない」というような現状否定こそ目的であり、特定の志向性を持たない。極論すれば、ここじゃなければ「どこ」かは構わないのだ。

それに対して、ゼロ年代は「虚構」という言葉を用いるようになったため、それが指し示す対象は創作物に限定されていた。

ゼロ年代、オタク文化圏において「虚構」という語が意味したのはアニメ・漫画のなかの世界で、その代表は例えばハイファンタジーであり、学園ものあった。

では、セカイ系とゼロ年代の分水嶺に立つ文章を一つ見てみよう。

ゼロ年代ライトノベルブームに先鞭をつけた『ゼロの使い魔』(ヤマグチノボル)のあとがきに記された著者の言葉だ。

  そして、ああ、僕はなんというか、異世界に対する憧れというのが強い。とにかく、ここじゃないどこかに行きたいという欲求が常にあります。初めて訪れる街が好きです。異国の写真を眺めるのが好きです。月の裏側ならなお素晴らしい。そこが、『ここ』ではない、どこか別の世界なら、言うことはありません。

このなかでヤマグチは、「ここじゃない」という現状否定を訴えているが、それならばどこを望んでいるのかというと、二度も「どこか」という語を使っているように、具体的な「どこ」を望んでいる訳ではないと受け取れる。

しかし、欺瞞というべきか矛盾というべきか、事実ヤマグチが『ゼロの使い魔』に選んだ世界観は王道の学園ものである。

「ここじゃないどこか」と言って異国や月の裏側を例に挙げつつ、実際はテンプレに従ってしまうあたりに、セカイ系とゼロ年代のハイブリッドを見て取れる。そしてもちろん「どこか別の世界なら、言うことありません」という言葉に異世界ものの鼓動が聴こえる。

「現実と虚構」について考えていたゼロ年代から、どのような経緯で異世界ブームが発生したのか、まだ私のなかでまとまっていない。

ゼロ年代は、テーマがメタ的かつ自己言及的なため、自家中毒に陥っているところで脱出口として異世界を見つけたのだろうくらいには思う。それも、ゼロ年代の「現実と虚構」がセカイ系の「日常と非現実」とそう変わらない想像力であったのに対して、異世界ものの「この世界と別の世界」は独自的な部分も多いことから、セカイ系以来の問題系に大きな変化がもたらされるのではないかと楽しみにしている。

ここでは示唆するに留めるのだが、異世界転生の作品群を指して、異世界という割にハイファンタジーばかりという批判をたまに見かけるが、それに答えるためには少なくともヤマグチがこのように語ったゼロ年代前半までは遡って考えなくてはならないだろう。実際に、異世界ものは、異世界に転生/転移するのが目的でそのあとは目的がない、派生して、目的を見つけるのが目的というような作品も多く、この点に関してはセカイ系の「ここじゃないどこか」の精神をそのまま引き継いでいる。良い悪いは別にして、だ。

ゼロ年代との比較で言うなら、主人公が「別の世界」に行くというのは、そこだけ切り取れば素朴すぎると思ってしまう。ゼロ年代が「現実と虚構」というテーマと格闘しながらも代表作と目される作品で、安易に主人公がアニメ・漫画の中に入っていく事例がなかったのは、ジャンルとして自らのテーマと真摯に向き合っていた証左だと考えている。とはいえ、『ドン・キホーテ』しかり『不思議の国のアリス』しかり、そういった展開は普遍性を持っていて、その割に(特に現代では)扱いの難しいジャンルなので、なんとか異世界ものから傑作が生まれてくれないかと期待を寄せている。

そして、時間が許せば私も書きたい。

本論は、私の今後のためのメモみたいなもので、特に最後は取り留めのないものになってしまった。

読者にはがらくたを漁らせてしまったが、その中から一つでも気になるものを見つけてくれていれば、と願うばかりだ。


『小論「非現実から虚構、そして異世界へ」』終わり

心地よく裏切られ続けるために

投稿サイト「小説家になろう」に掲載する際、引用ルールが分からず紹介を控えた小説がある。田中ロミオ『AURA』の以下の部分だ。

「できない、この世界で冒険なんて…」
「できる」
「どこで?」
(略)
「ドイトとか。あとダイソーとか」
「それ冒険じゃない」
「お前はドイトを嘗めてる。Do It Yourselfの精神を嘗めてる。ビスはVisだし食虫植物売ってるし、ドイトやダイソーは現代に甦った迷宮なんだよ。行けばDIY魔王とかもゴロゴロいるしな。まあ見てくれはどこにでもいるオヤジばかりなんだけど。腕スゴイから。とにかくDIYを見くびるとDIE(死ぬ)ってことだよ。そのあたり、教えてやるから」
「なに、それ……ばかみたい、ばか」

物語のクライマックス、主人公の一郎と良子の会話だ。
現実世界を否定する良子に対して、一郎は、現実は彼女が思っているのとは別様の在り方もしているということを力説している。

これは、ゼロ年代に「現実-虚構」という対立軸を主題としたオタク系文化において、ひとつの回答を示していると考えている。
辛い現実に対して、虚構の役割は、逃避先たるアジールである。のみならず、現実が「辛い」だけではないという認識の転換をもたらすもの。それが一郎、そして『AURA』が示そうとしたことである。

私は、「アニメ聖地巡礼」の観光産業における画期性もこの点にあると思う。

アニメ聖地となっている場所は、その地域で一般的に価値を持っている場所であるとは限らない。神社のように、地域での価値もアニメ聖地としての価値もあわせ持っている施設もあるが、何の変哲もない道路や民家であることも多い。

岡本のこのように述べる通り「アニメ聖地巡礼」では、地域住民とオタクで価値観の相違が解消されない状態が続く。ゆえに異なる価値観を有する「他者性を持った他者」と出会う回路になるというのが岡本の主張だが、それを私なりに解釈して一歩進めれば、「現実の在り様が一意ではない」ということになる。

これまで観光資源というのは「大きな物語」化する傾向があった。
一般に、観光客にとっては町の偉人よりも国の英雄、世界創生に関わる聖人の方が惹きつけられる。迎える地域側としても、歴史や伝承に関連付けることで観光資源の価値を保証しようとする。地域の特色として子供に学ばせたりもする。その結果、観光資源はその地域を全的に覆うアイデンティティになっていく。
それはあまりに前近代的であり、現代ではもはや成立しない図式なのは明白だ。例えば、毎日洋服を着て暮らしている人が外国人を迎える時だけ和服を着用し、日本の伝統をアピールしたりする。観光客としては、分節し「小さな物語」が乱立した日常を離れ、歴史や伝統という「大きな物語」に触れて満足できる。たとえそれが紛い物であっても。
こういった観光の図式に対して、新たな方策を発見したのが「アニメ聖地巡礼」である。自分には価値のない事物が、他人には価値がある。地域を見る眼差しが多様化するということであり、観光の近代化と言える。
少し想像してみてほしい。あなたは鉄道で旅に出て、到着した駅を出る。正面に大きな観光マップが立てられいるのを発見する。それはいくつ並んでいるか?たった一枚だろう。その単一的な眼差しな前近代的なのだ。「アニメ聖地巡礼」でオタク向けの観光マップが作成されたように、これからの観光では、何種類もの異なるマップが用意されるのではないだろうか。

さて、岡本は以下のように『アニメ聖地巡礼の観光社会学』を通して、一貫して価値観の異なる状態を肯定的に捉えている。

コンテンツの面白さそのものについては共鳴していないが、対象は違えど、「好きなことに情熱を傾ける」という点には共感、理解しているのだ。これは、立場の違う他者に対する理解の仕方として興味深い。

だが、第12章では『けいおん!』の聖地である豊郷小学校旧校舎群が、著名な建築家ヴォーリズの作品であることから、聖地を訪れた『けいおん!』オタクが無関係なヴォーリズにも興味を広げる可能性に言及し、それを「アニメ聖地巡礼」の好例としている。
これには主張のブレを感じる。マップは一枚に統合する必要はないし、するべきではない。美少女アニメと建築作品。異なる要素が共存するのが「アニメ聖地巡礼」が切り開いた地平だ。

だが、ふと疑問に思う。もし、ある場所が決して共存できない二者から聖地に認定されてしまったら?
たとえば、スプラッターなゾンビアニメの舞台が豊郷小学校旧校舎群をモデルにしていたら?『けいおん!』に豊郷小学校の肖像権があるわけではないので、権利的な問題はないのだ。
ゆるふわ空気系と絶叫系。二つの作品はとても共存しえない。その時、両者のオタクは、エルサレムを争い血で血を洗う三宗教のように激しく対立するのだろうか?それはないだろう。きっと、格好のネタとして楽しむはずだ。
『けいおん!』の聖地が新たなる意味付けを与えられるとき、『けいおん!』もまた新たなる認識がもたらされ、そして再生する。
それは、自身が豊郷小学校旧校舎群に闖入して異なる価値観を植え付けたように、今度は自分がゲストを迎え入れ、攪乱される番だ。『けいおん!』が『がっこうぐらし!』のような日常ゾンビものに成り得るし、『ゾンビランドサガ』よろしくゾンビバンド作品が爆誕するかもしれない。
ある虚構作品が、現実空間を介して別作品に影響される。そこではどのような事態が進行するのだろうか。私にはまだ分からない。


15歳くらいだったか。風情の色濃い下町だと思っていた江戸川の対岸が、実はただの住宅街だと知ったのは。正確には、下町と呼ばれるエリアはもう少し先なのだ。
私は、幼少から自分勝手に思い描いていた理想郷に裏切られたのだ。
それは、心地よい裏切りだった。
なぜか。
「他者性を持った他者」とは私の想像の向こう側にいるからだ。いつの間にか、気付かぬうちに自身のイメージに取り込んでしまった江戸川の彼方は、その裏切りによって、やはり私の他者であることを示した。
私が想像していなかった世界が、そこにある。固定化した世界観が刷新される体験であり、大袈裟に言えばそうやって裏切られ続けることが人生なのだと思う。

始めは「他者性を持った他者」として現れた者も、関係性が継続すれば「馴れ」によってその他者性を失ってしまう。
だから、見知った風景が、不意に現れるオタクによって新たなる価値観を発掘される奇蹟を待とう。飽き飽きしたなんでもない景色が実は思いもしなかった「聖地」だという驚きを期待しよう。
私は、豊郷小学校旧校舎群にゾンビが溢れかえるのを見てみたい。


2019年 6月 吉日 小暮総帥

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